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おもわず、後ろから抱きしめてしまいそうになって
私は驚いた。


たった今 自分はこの店に来たばかりで、たった今 出会った(正確には目すら合っていない)
お客に、なぜそんな感情を抱いてしまうのか……

私はショルダーバッグの肩ひもを両手でぎゅっとにぎると、
店員に案内され
彼の右側に、一つ 席を空けて座る。

動揺など伝わるはずもないだろうけれど、
私の心臓は早鐘のように鳴っていた。





控えめなジャズの音楽、外は雨。

午後15時をまわった喫茶店は、程好くにぎわっていた。
私はここで大学の論文を練りながら、あいまに本を読むのが好きだった。

店内の真ん中に、円を描くように据え付けられたカウンター席。

その中央付近では慣れた手つきでコーヒーを淹れるマスターが、馴染みのお客と
談笑している。

近くには、ドリップケトルが白い湯気をぽこぽこと上げていて、
その隣に幾つも並べられたコーヒーサイフォンからは
熟練された工程通りに、飴色に光る芳醇なコーヒーが抽出されている。

私が毎回座るのは、壁際にあるコーヒーカップの棚のすぐ横。
マスターや他のお客の視線からは少し外れた席。
ここが居心地のいい私の特等席だった。

この老舗の隠れ喫茶には、それ相応の年代の常連が多かったが、
決して背伸びをしているわけではなく、ゆるやかな時間が流れるこの空間が
私には合っている気がして、定期的に利用をしていた。


…………


案内をしてくれた店員にコーヒーを頼んで一息つくと、
横目でちらりと先ほどの「彼」を見る。

彼の手元には、
淹れたてのコーヒーと、新聞と、数冊の本がある。

歳は私と同い年位だろうか。やわらかそうな茶髪に日焼けのしていない肌。
店内の淡いオレンジ色の明かりが、彼の睫毛に影を落としている。
それから、きちんとアイロン掛けがされた白いシャツが目立った。
右手で頬杖を突きながら本を読んでいる。

一目惚れとも運命だとも言う気はないが、
私は何故か、彼に惹かれるものを感じていた。

「これはね、『別世界』」

ふいに彼の口元が開き、次の間には視線が合った。

数秒経って、ようやく自分に話しかけられていると理解した私は

「ご、ごめんなさい…!」と口をパクパクさせて答えた。

「君も好きなの? 本」

「え?」

「だって、ずっとこの表紙を見ていたでしょう」

彼は特に気にすることもなく、ページの間にしおりをはさんで
表紙のタイトルを私に指で示して見せる。

「そ、そうなんです。私もここで本を読むのが好きで……」

慌てる必要もないのに、
私は出そうとしていた論文の資料とパソコンをバッグの中へ押し込んで、
今 読んでいるお気に入りの本を取り出した。

彼の目が少し見開かれ、視線が私の本に注がれた。

意図せず、お互いの本の表紙を見せ合う形となったこの場は、
彼がふっと笑った声で、一気に
席一つ分 空いた距離が縮まったように思えた。


「君と同じ本だったんだね」


彼の背中は、今にも消えてしまいそうなほどに
頼りなげで、でも広かった。

いつまでも見ることのできないであろう儚い笑顔に、
どうしても惹きつけられた。

決して追ってはいけない人に出会ってしまった私は
きっと、この本の主人公に似ているのかもしれない ――。





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